戦国名将録
この画像はGAMECITY市民登録済みユーザーのみに使用許諾されたものです 織田信長
戦国の異端児 生没年1534〜1582
織田信秀-織田信長-信忠

織田信長は幼時期から奇怪な行動をしていたため家臣達から絶望視され弟・織田信行に家督を継がせようとする一派が現れる始末であった。
しかしその一方で斎藤道三に気に入られ、対織田信行の援助を受けた。また叔父の織田信光の力もあり弟・信行に勝利する。
このとき弟を許し柴田勝家や他の家臣たちも許し忠誠を誓わせる。
ところが弟の信行にまたしても謀叛の動きがあったため先に手をうち自害させた。
1557年に舅の斎藤道三が息子斎藤義龍に討ち取られ斎藤家と織田家の国交が失われた。
敵討ちをすべきところであったが駿河の今川義元が思うようにさせてはくれなかった。
1560年、今川義元の2万の大軍が上洛の動きを見せその途中にある織田家の諸城を落城させていた。
あせる家臣たちを尻目に落ち着き払った信長は敦盛の舞を舞いながら決意を固め、間者の報告で桶狭間で休息する今川義元の陣の位置を知ると仕度の整わない家臣を置き去りにし敵陣に向かった。
今川義元はまさか尾張の大うつけが少数の兵で大軍相手に突撃してくるとは夢にも思わなかったに違いない。
東海一の弓取りといわれた実力を持ちながら今川義元はこの恐るべき異端児の前に討ち取られてしまった。
今川家ではあまりの混乱で統制が取れず、抵抗らしい抵抗をせず撤退してしまった。
このときただ一人岡部元信だけが尾張の鳴海城に立てこもり織田信長をてこずらせたが今川義元の首と引き換えに開城させた。
その後、後を継いだ今川氏真は復讐戦を挑むわけでもなく、決断をすることができなかったため三河の松平家康が独立し信長と同盟した。
このため徳川家康が今川氏真と戦端を開くこととなり織田信長は斎藤家の稲葉山城攻略に乗り出す。
このとき活躍したのが羽柴秀吉で墨俣に一夜で城を築き、美濃三人衆を味方につけ斎藤龍興を美濃から追い出すことに成功した。
この後、諸国を放浪する足利義昭を擁立し上洛を開始した。
目前に立ちはだかる朝倉義景、浅井長政、六角義賢、といった大名を倒し京へ上ることに成功した。
安土城を建設し、時の将軍でさえ手に入れることのできなかった秘宝蘭奢待を得ることにも成功し天下にその名をしらしめた。
一向一揆や信長包囲網にてこずらされながらも次第に勢力を拡大いし中国・羽柴秀吉、北陸・柴田勝家、四国・丹羽長秀、関東・滝川一益といった重臣に地方を任せ自らは隠居し、家督を織田信忠に譲った。
その後本能寺にて茶会を開いていたところ、突如明智光秀が謀叛をおこし、本能寺で自ら槍を持って奮戦したが力及ばず自害した。
謀叛の理由は足利義昭、羽柴秀吉、徳川家康の陰謀がささやかれるが未だ謎は不明だ。
不幸にも敵を討つため本能寺に向かった織田信忠も敗死し、羽柴秀吉と柴田勝家の主導権争いへと発展した。
 
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