尼子家盛衰記

尼子家

尼子家は元来出雲・隠岐の守護代であった。
尼子清定の時代に尼子家は力をつけたが、逆に守護を越える勢いを恐れられ警戒されることとなった。

最盛期

そのため清定の子・尼子経久(1458-1541)は守護代の任を解かれたが知略を持って月山富田城を奪還した。
その後経久の元で尼子家は着々と力をつけ全盛期には11カ国(出雲・隠岐・石見・伯耆・安芸・因幡・美作・播磨・備前・備中・備後)にまで勢力を拡大した。
しかしその代償に将来を期待された息子・尼子政久が1518年に運悪く戦死してしまった。
1531年尼子経久は家督を政久の子、尼子晴久に家督を譲った。
また尼子家の精鋭として知られた経久の子・新宮党の党首尼子国久をその後見役とした。

衰退期、安芸攻略戦

1540年には、尼子家当主・晴久が安芸で勢力を伸ばす毛利家攻略に乗り出した。
ところが3万にも及ぶ大軍で攻めたにもかかわらず、総大将の尼子晴久は命からがら退却するという大敗を喫した。
さらに出雲では全盛期を築いた尼子経久の病死という大きな痛手を負う。
絶好の好機とばかりに大内・毛利連合軍が尼子家の出雲に攻め込んできた。
尼子家家臣であった吉川興経が大内・毛利連合軍に寝返り、道案内を買ってでて、出雲の奥ふかくまで進軍してきた。
しかし寝返ったはずの吉川興経は実は亡き尼子経久の策で偽りの寝返りをしていた。
そのため奥地へ進みすぎていた大内・毛利連合軍を奇襲によって退けることに成功した。
一難が去ったばかりであったが尼子晴久は逆にいまこそ再び安芸を攻撃する好機と見た。
しかし度重なる出兵、敗戦による兵力の減少と疲労により、尼子家は見る影も無く、毛利家にあっけなく敗れてしまう。

衰亡期、毛利家台頭

大内家では主君大内義隆が尼子家への敗戦によるショックで享楽にふけるようになり、配下の陶晴賢に殺害される。
しかしその陶晴賢もまた1555年厳島で毛利元就に敗れ大内家は滅亡してしまう。
尼子家では1554年尼子家の精鋭部隊・新宮党を謀反の疑いありとして新宮党を率いる尼子国久・尼子誠久親子を討ち取っていた。
しかしこれは毛利元就の陶晴賢を倒すまでの時間稼ぎのための謀略であった。
このことにより尼子家はさらに衰退し、逆に毛利家は勢力を格段にひろげることに成功した。

滅亡から再興

1560年には尼子晴久が病死する。
晴久の子・尼子義久の代になると毛利元就が病死し、毛利家に圧される尼子家中は戦局が変わることを期待したが、後を継いだ若い毛利輝元小早川隆景吉川元春が支えることにより毛利一門の結束は固く、戦局は変えらなかった。
またこの頃には毛利家へ寝返るものが後を絶たず疑心暗鬼に陥った義久により家臣が誅殺される事件が起こった。
1566年、尼子家本城である富田城はついに開城し、当主尼子義久が幽閉され滅亡する。
しかし家臣の中には尼子家の再興を考える者たちがいた。山中鹿之助立原久綱らである。
尼子義久には尼子家再興の気がなかったため、尼子誠久の子・尼子勝久を当主として再興を図った。
しかし毛利家の大軍の前になすすべなく落城し落ち延びる。
その後織田信長に援助してもらい羽柴秀吉の元で、再び城を落城させ、その功により再度城を与えられた。
ところが羽柴秀吉が撤退したとたんに毛利家5万の大軍が城に襲い掛かり尼子勝久は自害、山中鹿之助は捕らえられ護送の途中反旗を翻すことを恐れられ謀殺されたという。
尼子義久はその後客将として扱われそののち出家した。
 
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