赤尾清綱
(あかおきよつな)
?〜1573 浅井氏の重臣で「海赤雨三将」の一人。主家の滅亡に殉死した。

明石全登
(あかしたけのり)

宇喜多家に客分として仕えていたキリシタン武将。主家滅亡後大阪の陣で真田幸村が戦死した後もよく持ちこたえた。その後行方不明。
赤穴盛清
(あかなもりきよ)
?〜1595 尼子家家臣。忠臣であった父・赤穴光清の戦功で所領の加増を受ける。が毛利家に寝返り所領安堵を得、その後尼子家との戦いでは先頭に立った。
赤松政秀
(あかまつまさひで)
?〜1570 敵対する浦上正宗の息子が婚礼の日で油断しているところを襲撃し討ち取った。後に毒殺される。
赤松義祐
(あかまつよしすけ)
?〜1576 赤松家は播磨・美作の守護大名であったが浦上宗景の勢力拡大により没落した。
秋上久家
(あきあげひさいえ)
尼子家の侍大将で十勇士に数えられる。
秋田実季
(あきたさねすえ)
1576〜1659 一族の叛乱や小野寺氏、南部氏との激戦の末秀吉から所領安堵される。のち関が原の戦いで不手際があり移封された。のちに伊勢に流される。
秋月種実
(あきづきたねざね)
1545〜1596 大友氏と毛利氏の二大勢力挟まれていたため毛利氏につき大友氏と戦う。大友氏の隙をつき旧領を回復する。
秋月文種
(あきづきふみたね)
?〜1557 大内家とともに少弐氏と対立した。大内家滅亡後、大友家と毛利家の戦いでは毛利家につき大友家と戦う。大友宗麟に攻められ自害する。
秋山信友
(あきやまのぶとも)
1531〜1575 武田家の譜代にして武田二十四将の一人。1573年には東美濃岩村城をせめ、文字どおり無血開城させた。
明智秀満
(あけちひでみつ)
?〜1582 明智光秀の娘婿。本能寺の変では安土城の占領をした。山崎の戦いの後、坂本城に篭城し自害。
明智光秀
(あけちみつひで)
1528〜1582 諸国を放浪した後、織田信長に仕える。教養があるため朝廷と織田家との橋渡しをする。すべてに万能だったため異例の速さで出世した。1582年6月2日、突然本能寺に攻め寄せ織田信長を討つと京を制圧した。しかし細川、筒井氏といった頼みにしていた人々の協力が得られず、毛利氏の討伐から帰ってきた羽柴秀吉に討たれる。
明智光安
(あけちみつやす)
?〜1556 明智光秀の叔父。斎藤道三に仕え長良川の戦いで道三につき敗れた後も篭城したが撃ち破られ自害した。
浅井長政
(あざいながまさ)
1545〜1573 六角氏に臣従方針の父・浅井久政を隠居させ織田家から信長の妹・お市を娶る。しかし六角家と戦っていたころ常に浅井家を助けてくれた朝倉家が織田家と敵対したため朝倉家との同盟をとり織田家と敵対した。姉川の合戦で敗れ小谷城を攻められ自害した。
浅井久政
(あざいひさまさ)
1525〜1573 浅井長政の父。六角義賢の圧迫を受け六角氏に臣従する。が家臣の賛同を受けられず息子・浅井長政に家督を譲る。隠居後は息子と行動をともにし小谷城落城時も運命をともにし自害した。
朝倉景鏡
(あさくらかげあきら)
?〜1574 越前朝倉氏の一族。朝倉義景の代わりに総大将としてたびたび出陣する。しかし最後は義景を切腹させ織田家に仕える。越前の一向一揆蜂起の際に戦死。
朝倉宗滴
(あさくらそうてき)
1477〜1555 朝倉家を三代に仕えた重鎮。文化人だが優柔不断な当主朝倉義景にかわって近江では浅井家と組み六角家と戦い、越前と加賀国境では一向一揆と戦う。
朝倉義景
(あさくらよしかげ)
1533〜1573 越前朝倉氏五代目当主。畿内まで進出してきた織田軍の包囲網の一角を担っていたが動かず、逆に織田信長の後方を脅かす武田信玄の病死で織田軍の進行を受け姉川の戦いでは自分は出陣せず大敗してしまい一乗谷城を放棄したが朝倉景鏡の裏切りで自害した。
朝比奈泰能
(あさひなやすよし)
?〜1557 駿河の今川氏重臣の筆頭。太原雪斎の副将として今川家を支えた。
足利義昭
(あしかがよしあき)
1537〜1597 室町幕府十五代将軍。兄・足利義輝が松永久秀・三好長逸らに殺害されると各地の有力大名を頼るが国の都合で動けず、織田信長を頼ることになる。しかし信長に利用されているだけだと知り、各地の大名に対織田信長の密書をおくり信長包囲網が完成するが、その一角の朝倉義景は動かず、頼みの綱の武田信玄が病死したことにより無泡に帰す。結局足利義昭は京から追放され、各地の大名をたずねるが織田信長を恐れ誰もかくまってくれず備後で没した。
足利義輝
(あしかがよしてる)
1536〜1565 室町幕府十三代将軍。幼少から将軍の後見者争いに巻き込まれ近江にしばしば逃れる。後見者争いに勝利した三好長慶の死後将軍の権威を復活させようとし挙兵したが松永久秀・三好三人衆により返り討ちにあい殺害された。
蘆名盛氏
(あしなもりうじ)
1521〜1580 蘆名氏の十六代目。伊達家の内紛や常陸の佐竹家を攻撃し積極的に版図を拡大し蘆名家の全盛期を築き上げた。
穴山信君
(あなやまのぶきみ)
?〜1582 母は信玄の姉。妻は信玄の娘。血縁関係の多い武田家でも最も武田家に近い。信玄の死後、織田家の攻撃時に徳川家に降伏した。本能寺の変では徳川家康とともにいたため伊賀越えをするが、途中武者狩りにあい死亡。
姉小路頼綱
(あねがこうじよりつな)
1540〜1587 斎藤道三の娘を娶る。織田信長と親交を結ぶ。小牧長久手の戦いでの佐々成政と羽柴秀吉の二人が争ったとき。佐々成政についたため秀吉の怒りを買い姉小路家は滅亡する。
尼子勝久
(あまごかつひさ)
1553〜1578 尼子誠久の子。尼子家滅亡後、山中鹿之助に担ぎ上げられたが、毛利家に攻撃され自害した。
尼子国久
(あまごくにひさ)
?〜1554 尼子経久の次男。尼子家の精鋭部隊・新宮党の隊長。新宮党を恐れた毛利元就の謀略で尼子晴久に疑われ殺害された。
尼子経久
(あまごつねひさ)
1458〜1541 出雲尼子家の基盤を作り、尼子家を中国地方の大大名大内家と争えるほどの実力をつけた。全盛期には出雲の他に十数カ国を支配下に置いた。
尼子晴久
(あまごはるひさ)
1514〜1560 尼子経久の後を継ぎ出雲の大名となる。毛利家を配下にし八カ国を支配していたが毛利家が大内家につくと次第にその勢力は衰えていく。1554年には毛利元就の仕掛けた謀略にかかり新宮党(尼子家の精鋭部隊)を率いる叔父国久らを討つとさらに勢力は衰えていった。1560年毛利家と対峙中尼子家滅亡を見ずに病死。
尼子義久
(あまごよしひさ)
1540〜1610 父・晴久の死後滅び行く尼子家の家督を継ぐ。1566年毛利元就の攻撃により本拠・月山富田城が落城し尼子家は滅びる。幽閉されていたが、後に毛利家に降りその配下となる。
甘利虎泰
(あまりとらやす)
?〜1548 武田信虎の時代から武田家に仕えた譜代の将。信虎追放時には板垣信方とともに中心となって働く。信濃の村上義清との上田原の戦いで戦死した。
雨森弥兵衛
(あめもりやひょうえ)
浅井氏の配下で「海赤雨三将」と呼ばれる重臣の一人。
安藤守就
(あんどうもりなり)
?〜1582 斎藤家の家臣で「美濃三人衆」の一人。斎藤義龍の死後は斎藤龍興を見限り、「美濃三人衆」の二人とともに織田信長に降る。
 
飯田覚兵衛
(いいだかくべい)
?〜1632 加藤清正に仕えた猛将。清正死後はどの大名に誘われても仕官しなかった。
井伊直政
(いいなおまさ)
1561〜1602 徳川家康に仕えた勇将。「井伊の赤備え」という一隊を率いて数々の戦で手柄を立てた。

池田恒興
(いけだつねおき)
1536〜1584 織田信長の側近。山崎の戦いで羽柴秀吉に仕え明智軍を撃破する。小牧・長久手の戦いで奇策を立て自ら指揮をとったが徳川家康に察知されたため待ち伏せされ戦死した。
石川数正
(いしかわかずまさ)
?〜1592 松平家に仕えた将。外交感覚に優れ小牧・長久手の戦いの戦後処理を行う。その途中何故か出奔し、徳川家康の元を去り羽柴秀吉に走る。
石田三成
(いしだみつなり)
1560〜1600 寺の坊主だったが才能を買われ秀吉に気に入られる。以後秀吉の家臣として従軍する。秀吉の死後、徳川家康の野望を阻止しようとしたが頼りになるはずの秀吉恩顧の武闘派から嫌われる。西軍の数を集めることには成功したが事態が飲み込めていない大名がほとんどだったため戦意がまったく無かった。結果どちらにつこうか迷っている人間が多く小早川秀秋の裏切りで一気に情勢が悪化し敗戦後、捕縛され処刑された。
磯野員昌
(いそのかずまさ)
近江の浅井家に仕え、六角氏との抗争の前線を守る。姉川の合戦ではすさまじい突撃をみせ織田信長にあと一歩というところまでいった。浅井家が敗北した後も居城に立てこもり抗戦したが降伏し織田信長に仕えたが、のちに出奔した
板垣信方
(いたがきのぶかた)
?〜1548 武田家古参の将で武田信虎の時代から武田家に仕えていた。甘利虎泰とともに武田晴信に家督を継がせるため信虎の追放を計画した中心人物。甘利虎泰とともに上田原の戦いで戦死した。
一条兼定
(いちじょうかねさだ)
1543〜1585 土佐の大名。京から逃れてきた公家の血筋で従三位権中納言の位を叙任された。土佐の最大の勢力であったが長宗我部家の勢力拡大により圧迫され家臣に追放されてしまう。以降は婚姻関係にある大友家に身を寄せる。
一色義清
(いっしきよしきよ)
?〜1582 一色家は幕府と密接な関係があったため足利義昭の追放の際に織田信長と敵対する。徹底抗戦するが家臣の内通により一色家は滅びた。
伊東義祐
(いとうよしすけ)
1512〜1585 日向の大名。島津家の北進により争うことになったが敗れると島津家と敵対関係にあった豊後の大友家を頼る。しかし大友家は耳川の合戦で大敗したため九州を離れた。堺にて没した。


稲留祐直
(いなどめすけなお)

1552〜1569

一色家の家臣で稲富流砲術の開祖。主家滅亡後は細川忠興につかえ徳川幕府では鉄砲方となった。

稲葉一鉄
(いなばいってつ)
1515〜1588 斎藤家に仕えた。「美濃三人衆」一人で斎藤龍興を見限り織田信長に仕えその死後は羽柴秀吉に仕えた。
今川氏真
(いまがわうじざね)
1538〜1614 駿河・遠江を領した今川義元の嫡男。桶狭間の戦いで父が討たれると敵を討つと思われていたが何もしなかったため松平元康に見限られ三河で独立された。武田家に同盟を破棄され徳川家に領内を攻撃されると同盟国北条家に逃げ込んだ。北条家に追い出されると徳川家を頼る。さらに仇である織田信長に謁見し蹴鞠を披露する。
今川義元
(いまがわよしもと)
1519〜1560 駿河・遠江を領し、東海道一の弓取りと称された大名。織田・今川の間に挟まれた三河の松平家を傘下に入れ竹千代(徳川家康)を人質として預かる。武田家と同盟を組み後ろを脅かす相模の北条家を圧迫しておき織田信秀を小豆坂の戦いで破り三河の支配を確立する。織田信秀の後を継いだ織田信長の尾張鳴海城を落とし牽制しておき、その間に今川・武田・北条の三国同盟を成功させる。後方を脅かすものが無くなり、ついに1560年二万七千という大軍を率い上洛(織田家討伐とも言われる)に乗り出す。織田家の砦を次々と落とし桶狭間の途中の田楽狭間で休憩をとったため織田信長の奇襲を受け戦死した。
 
上杉景勝
(うえすぎかげかつ)
1555〜1623 上杉謙信の養子となる。謙信の死後、御館の乱で跡目争いに勝利し家督を継いだ。織田信長の侵攻を受けるが本能寺の変で救われる。以後は豊臣秀吉と手を組み五大老の一人となる。関ケ原の戦いでは西軍についたため改易こそ免れたが禄を減らされ米沢に移され米沢藩の藩祖となった。
上杉景虎
(うえすぎかげとら)
1552〜1579 北条氏康の七男。上杉謙信に実子がいなかったため同盟時に養子として出される。御館の乱で上杉景勝と跡目争いをするが敗死した。
上杉謙信
(うえすぎけんしん)
1530〜1578 越後を治めた大名。寺に預けられていたが父の後を継いだ兄・長尾晴景が病弱だったため長尾家当主となり分裂していた越後を統一する。隣接する北信濃の村上義清に助けを求められ川中島で武田軍と衝突する。その一方で北条氏康に圧迫された関東管領・上杉憲政から関東管領と上杉姓を与えられ、たびたび関東に出兵する。さらに越中にも出兵し一向一揆と戦った。武田信玄死後は武田家を攻撃するのを止め北条家と同盟を組み、北陸における勢力も拡大し加賀で織田軍と衝突しこれを破る。噂の織田軍が強くないと言い放ち上洛を計画したが急死した。
上杉憲政
(うえすぎのりまさ)
?〜1579 上野を支配した関東管領山内上杉。勢力を拡大する北条家と一戦交えるがそのたび敗戦をきっしたため、関東管領の名声は失墜した。そのため関東管領と上杉姓を佐竹家に譲ろうとしたが断られたため長尾景虎にすべてを譲り隠居した。しかし御館の乱で上杉景虎の屋敷にいたため巻き込まれてしまい上杉景勝に殺害された。
宇喜多直家
(うきたなおいえ)
1529〜1581 浦上家家臣だったが宇喜多家を再興させ、あらゆる謀略・手段を用い勢力を拡大する。毛利家と同盟を結び勢力を拡大し、織田家の勢力が近づくと織田家につき毛利を攻めた。
宇喜多秀家
(うきたひでいえ)
1572〜1655 宇喜多直家の子。織田家の勢力が近づいたとき羽柴秀吉に養子に出され重用される。秀吉の下で戦功をあげ豊臣政権では五大老にまで加わった。関ケ原の戦いでは西軍として参加し奮戦するもあいつぐ寝返りに西軍は敗北する。戦後は島津にかくまわれていたが、助命嘆願が大勢から出たため死罪を免れ配流となりその地で没した。
氏家卜全
(うじいえぼくぜん)
?〜1571 斎藤家の家臣で「美濃三人衆」の一人。他の美濃三人衆とともに織田信長に寝返る。姉川の戦いに参軍し戦功を立てる。伊勢長島の一向一揆を討伐にいくが敗れたため殿軍を務め戦死した。
宇山久兼
(うやまひさかね)
?〜1566 尼子家の宿老。他の家臣が次々寝返った中で忠義を尽くすが主君尼子義久に内通を疑われ誅殺された。
浦上宗景
(うらがみむねかげ)
兄・浦上政宗と関係が悪く、兄を攻めつつ赤松氏を圧迫し勢力を拡大するが、家臣の宇喜多直家に追放されてしまう。

 

江里口信常
(えりぐちのぶつね)
?〜1584 龍造寺家家臣で「龍造寺四天王」の一人。沖田畷で龍造寺隆信が戦死したと知るや単身で島津家久陣に突入し討ち取られた。
 
大内義隆
(おおうちよしたか)
1507〜1551 周防を含めた七国を治めた大名。安芸の毛利元就を傘下に加え出雲の大名尼子家と敵対し居城の月山富田城まで攻めるが策にはまり大敗をきっした。以降は文の才があったため文にのみ興味を示し武にまったく目を向けなかったため武闘派の重臣陶晴賢に謀反を起こされ自害した。 
大谷吉継
(おおたによしつぐ)
1559〜1600 石田三成の友。関ケ原の戦いで石田三成が勝てないことを知り、何度もやめるよう説得したが聞き入れなかった。関ケ原の合戦が開かれると徳川家康と懇意であったが義のため死を悟りも石田三成につく。しかし小早川秀秋が寝返り横をつかれるがもちこたえ撃退する。が相次いで寝返ったため大谷軍二千に対し二万の軍勢が襲い掛かり敗北し自決した。
大友宗麟
(おおともそうりん)
1530〜1587 大友氏二十一代目。家臣をうまく使いこなし九州最大の勢力にまでなる。しかしキリスト教に入信すると陣の後方で祈るのみで指揮をとらず島津家との雌雄を決する大事な戦に敗れる。その後領土を次々と失い豊臣秀吉に援軍を頼み島津家を退け危機を脱し、かろうじて豊後一国のみを安堵される。
小笠原長雄
(おがさわらながかつ)
尼子家家臣だったが城を攻められ毛利家家臣となる。
織田信雄
(おだのぶかつ)
1558〜1630 織田信長の三男。伊勢の北畠家に養子に入る。本能寺の変後、織田に姓を戻し賤ヶ岳の戦いでは徳川家康につく。戦後天下人となった豊臣秀吉に転封を言い渡されたが拒否したため怒りを買ってしまう。
織田信忠
(おだのぶただ)
1557〜1582 織田信長の嫡男。美濃・尾張を譲られる。松永久秀討伐・武田家討伐で活躍する。本能寺の変が起きると急いで駆けつけたためなすすべなく二条城にこもった。わずかな手勢であったため敗れ自害した。
織田信長
(おだのぶなが)
1534〜1582 尾張の大名。父・織田信秀が死ぬとうつけといわれていた信長に危機感があった家臣とともに弟・織田信行に背かれるが一度は許した。しかし再び背いたため殺害する。1560年今川義元を桶狭間で破り斎藤義龍の死後、斎藤家を滅ぼすと美濃を支配し天下布武を決意をあらわす。その後も勢力を拡大したが、1582年突如手薄になった本能寺に明智光秀が攻め込んできたため自身も槍を持って戦ったがかなわず自害した。
織田信行
(おだのぶゆき)
?〜1557 織田信長の弟。兄のうつけぶりに対し信行は優等生だったため柴田勝家らに後押しされ謀反を企て失敗したが許された。が再度謀反を計画したため殺害された。
飯富虎昌
(おぶとらまさ)
?〜1565 武田家譜代の家老。赤い鎧を着せた「赤備え」と呼ばれる部隊を率い幾多の合戦をくぐり抜け「甲山の猛虎」と呼ばれる。武田信玄の嫡男・武田義信の教育係となるが今川家をめぐって義信と信玄が不和になり義信が謀反を企てたため自ら身代わりとなって自決した。
小山田信茂
(おやまだのぶしげ)
1539〜1582 武田家家臣。小山田部隊は武田家の中でも最強ではないかと言われていた。ところが武田信玄の死後、織田信長に寝返り勝頼を自決に追い込む。しかし織田信長に主を裏切った不忠者として殺害された。