【は】
羽柴秀長
(はしばひでなが)
1540〜1591 羽柴秀吉の父違いの弟。農民として暮らしていたが、秀吉に乞われその家臣となる。以降、秀吉の副将として幾多の合戦に参加し戦功を挙げる。秀吉から非常に信頼されていたが病にかかり病没した。
羽柴秀吉
(はしばひでよし)
1536〜1598 尾張の百姓。織田信長に惚れ込みその家臣としてもらう。度重なる戦功により出世し本能寺の変で織田信長が戦死すると、明智光秀を討つことに成功し織田家の後継者選びで主導権を握ることに成功する。柴田勝家を滅ぼし、外交手腕で徳川家康を配下にすることに成功し、全国統一を達成した。
蜂須賀小六
(はちすかころく)
1526〜1586 尾張の土豪。まだ名を知られていなかった羽柴秀吉に誘われ墨俣城の建設に力を貸す。以降、羽柴秀吉のもとで力を振るう。
馬場信房
(ばばのぶふさ)
1514〜1579 武田家家臣で武田4名臣の一人。信虎の代から武田家に仕える。長篠の合戦での敗北後、殿を務め戦死した。
原虎胤
(はらとらたね)
1497〜1564 武田24将の一人。信虎の時代より武田家に仕え信玄の時代には重臣として君臨した。猛将として知られ鬼美濃の異名を取る。
原昌胤
(はらまさたね)
?〜1575 武田家家臣。武田24将として知られ、武田家随一の陣馬奉行で信玄から布陣に関することは昌胤に聞けと言われる。
塙直之
(ばんなおゆき)
1567〜1615 加藤家家臣。加藤嘉明に仕えるが一番手柄を狙うため軍令違反を起こし追放される。豪快な人物で引く手あまただったが嘉明の横槍で仕官かなわず、大坂城入りし再び名を上げようとしたが戦死した。
 
【ひ】
百武賢兼
(ひゃくたけともかね)
?〜1584

龍造寺家家臣で龍造寺四天王の一人。龍造寺隆信から武が百人力であるという意味をこめて百武という名字を送られた。

平手政秀
(ひらてまさひで)
1492〜1553 織田家家臣。織田信長の後見役として信長を見守るが奇行を諌めるも治まるどころか逆にひどくなり責任を感じ切腹した。
 
【ふ】
深水長智
(ふかみながとも)
?〜1590 相良家家臣。相良家に3代に仕え羽柴秀吉の九州攻めの際には先方をかってで、相良家の存続に尽力した。
福島正則
(ふくしままさのり)
1561〜1624 羽柴秀吉の家臣。幼少時から羽柴家の子として育てられ、猛将として知られるようになった。賤ヶ岳の戦いで大活躍し、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる。関が原の合戦では石田三成との不和から徳川家康につく。
 
【へ】
 
【ほ】
北条氏康
(ほうじょううじやす)
1515〜1571 その類まれな才能を活かし、山内・扇谷、両上杉氏を打倒し、上杉謙信や武田信玄と刃を交えつつも関東に強大な帝国を築き上げる。
北条綱成
(ほうじょうつなしげ)
1515〜1587 福島正成の嫡男であったが父の戦死により北条家家臣となる。数々の合戦で戦功を挙げ、北条氏綱に認められ娘婿として迎えられる。以降は北条家一門衆として北条氏康を助ける。
細川忠興
(ほそかわただおき)
1563〜1645

細川藤孝の嫡男。茶人・歌人として知られ利休の7哲の一人に数えられる。明智光秀の娘ガラシアを娶るが謀反の際は剃髪し味方しないことを示したため攻められる事はなかった。

細川藤孝
(ほそかわふじたか)
1534〜1610 戦国きっての文化人で足利義輝に仕えた。しかし義輝が殺害されると足利義昭とともに諸国を放浪し、織田信長に保護される。その後、義昭を見限り、織田信長の家臣となる。
本願寺顕如
(ほんがんじけんにょ)
1543〜1592 石山本願寺に本拠を置く一向宗の法主。伊勢長島や越前の一向衆を操り織田信長を打倒しようと画策する。信長包囲網を担ったが、武田信玄の急死や朝倉・浅井の敗北などで思うように行かなかった。
本城常光
(ほんじょうつねみつ)
?〜1562 尼子家家臣。石見銀山を守備し毛利家を退ける。がその後加増を条件に毛利に降るが毛利元就に謀殺される。
本多忠勝
(ほんだただかつ)
1548〜1610 徳川家家臣。徳川4天王の一人。徳川家きっての猛将で戦場に出ること50数回一度も傷を負ったことがなかった。
本多正信
(ほんだまさのぶ)
1538〜1616 徳川家家臣。三河の一向一揆で一揆方につき鎮圧後、出奔した。のちに許され家康の側近となり数々の謀略を献策する。