【か】
甲斐宗運
(かいそううん)
1515〜1584 阿蘇家の家臣だが大友家に阿蘇家が属していたため大友の敵対関係にある大名と戦う。耳川の合戦で大友家が敗れた後も大友のために戦うが、龍造寺が勢力を伸ばすと阿蘇家のために今度は龍造寺に属して戦う。
海北綱親
(かいほうつなちか)
?〜1573 浅井家に仕える。浅井家の「海赤雨三将」の一人。浅井家滅亡とともに死亡。
柿崎景家
(かきざきかげいえ)
?〜1575 上杉家の家臣で「上杉七人衆」の一人。川中島の合戦等で手柄を立てるが京で馬を売ったところ織田信長に買われてあたかも親しいような手紙を送られ上杉謙信にその仲を疑われ謀殺された。
片桐且元
(かたぎりかつもと)
1556〜1615 賤ヶ岳の七本槍の一人として知られる。秀吉亡き後は豊臣秀頼の近臣となる。大坂の陣では豊臣と徳川の外交交渉におもむく。しかし淀君に家康への内通を疑われ大坂城から追放される。
片倉景綱
(かたくらかげつな)
1557〜1615 伊達政宗に幼少時から仕える。小田原参陣を拒もうとする政宗を説き伏せ小田原に豊臣秀吉のところへ行くことを決意させた。
加藤清正
(かとうきよまさ)
1562〜1611 豊臣秀吉の遠縁の子で幼少時より秀吉に仕えかわいがられた。賤ヶ岳の七本槍の一人で朝鮮出兵でも活躍する。関ケ原の戦いでは石田三成憎しの念から徳川家康の東軍につく。以降は豊臣家存続のために豊臣恩顧の武将の筆頭として二条城での徳川家康との会見などを成功させている。
上泉信綱
(かみいずみのぶつな)
1508〜1573 新陰流の開祖としてその名を知られる剣豪。新陰流は柳生新陰流などに受け継がれる。上杉憲政に仕え箕輪城を守る。憲政が上杉謙信を頼った後も箕輪城に篭城する。落城後は剣術の修行に出る。
蒲生氏郷
(がもううじさと)
1556〜1595

織田信長に気に入られ近侍となる。信長死後は秀吉の家臣となり手柄をたてつづけ会津若松に90万石あまりを領す。

     
【き】
城井鎮房
(きいしげふさ)
1536〜1588 豊前の豪族で強い勢力への鞍替えをたびたび行い家名を存続させるが秀吉による領地替えに背いたため殺された。
木曾義昌
(きそよしまさ)
?〜1595 武田家一門衆として扱われていたが信玄没後、織田信長に寝返った。このため寝返りが続発し武田家は滅びた。武田家の3大逆臣の一人。
北条高広
(きたじょうたかひろ)
上杉謙信の配下であったが武田信玄に寝返る。その後北条氏康に寝返り越相同盟時に再び上杉謙信に使える。
北畠具教
(きたばたけとものり)
1528〜1578 伊勢の国司であったが織田信長と、息子・信雄に家督を譲ることを条件に和睦した。
吉川元春
(きっかわもとはる)
1530〜1586

毛利元就の次男。小早川隆景とともに両川と賞される。隆景と違い好戦的で武勇で知られる。本能寺の変が起きたとき羽柴秀吉の追撃を主張する。主に尼子家の山陰地方を攻略しその戦上手ぶりに山中鹿之助を嘆かせる。

木村重成
(きむらしげなり)
?〜1615 豊臣秀頼の側近として育ち徳川家康との戦さの非を説いたため臆病者呼ばわりされたがいざ大阪夏の陣が始まると奮戦し討ち死にした。
 
【く】
九鬼嘉隆
(くきよしたか)
1542〜1600 織田信長の配下となり、鉄甲船を率い100倍近くの毛利水軍を撃破した。
黒田官兵衛
(くろだかんべえ)
1546〜1604 羽柴秀吉の軍師となり数々の策で秀吉を補佐したが余計な一言を言ったため警戒されてしまう。
 
【け】
 
【こ】
高坂昌信
(こうさかまさのぶ)
1527〜1578 武田4名臣の一人で海津城を守った。対上杉謙信の先鋒としてにらみを利かせていたため他の合戦には参戦しにくい立場にあった。
後藤又兵衛
(ごとうまたべえ)
1560〜1615

黒田官兵衛に使える。黒田官兵衛の死後、後を継いだ黒田長政とうまくいかず出奔。仕官しようにも長政が邪魔をしたため、大阪夏の陣で大阪方に組し戦死する。

小西行長
(こにしゆきなが)
?〜1600 キリシタン大名。朝鮮への出兵で加藤清正と先陣を争うが加藤清正は征服を目的としていたため和平を模索する小西行長とはうまくいかなかった。結局関が原の合戦で西軍につき大将格として斬首された。
小早川隆景
(こばやかわたかかげ)
1533〜1579 毛利元就の三男。吉川元春とともに毛利の両川と賞される。名流小早川家の養子となる。水軍を組織し毛利元就を補佐する。智謀に優れているだけではなく勇武にもすぐれていた。豊臣秀吉の政権下では5大老の一人として知られる。
小早川秀秋
(こばやかわひであき)
1582〜1602 秀吉の養子となったが関ケ原の合戦で西軍につくべきが東軍につき大谷吉継隊へ突撃する。多勢に無勢だったため大谷吉継は戦死した。大谷吉継は義のために死を選んだのに比べ、秀吉の養子であったのに東軍についた小早川秀秋の卑怯さに戦後味方からも嫌われた。その後大谷吉継の呪いといわれる謎の病死をした。