【ま】 | ||
前田慶次 (まえだけいじ) |
1542〜1612 | 滝川益氏の子。前田家の養子となるも前田家を継いだのは養父の弟前田利家だったため追い出されてしまった。後に上杉景勝の家老・直江兼続と懇意になり上杉景勝に従う。 |
前田利家 (まえだとしいえ) |
1538〜1599 | 織田家家臣。織田信長の幼少時から付き従い、その槍さばきから槍の又左の異名をとる。本能寺の変後、柴田勝家につくが親友・羽柴秀吉と刃を交わすことはなかった。戦後、羽柴秀吉は利家を責めず、逆に加賀に70万石を与えられ、徳川家康の牽制役に抜擢される。しかし太閤となった秀吉の死後、後を追うように病死した。 |
松田憲秀 (まつだのりひで) |
?〜1590 | 北条家家臣。北条家に代々つかえ家老となるも小田原の陣で篭城策を唱えておきながら自らは寝返ろうとした。未然に防がれた。戦後、処置を任された黒田官兵衛に不忠として切腹を命じられた。 |
松永久秀 (まつながひさひで) |
1510〜1577 | 三好長慶の家臣。三好長慶の死後、三好三人衆と組んで将軍足利義輝を殺害し畿内の制圧に乗り出す。織田家の前にあっさり軍門に下るも謀反を起こす。 |
【み】 | ||
三沢為清 (みさわためきよ) |
1536〜1588 | はじめ大内家に仕えていたが大内・毛利連合軍による進行時に尼子家に帰順する。後毛利家の出雲攻撃時に毛利家に降る。 |
三好長慶 (みよしちょうけい) |
1522〜1564 | 摂津芥川城に本拠を置く大名。細川晴元を京から駆逐し、畿内から四国へ版図を広げる。 |
【む】 | ||
村上義清 (むらかみよしきよ) |
1503〜1573 | 北信濃に一大勢力を築いた大名。武田信玄の信濃進行を幾度も阻み苦杯をなめさせる。しかし真田幸隆の謀略の前に戸石城を放棄すると、以降は衰退をたどり上杉謙信を頼って越後に落ち延びる。 |
【め】 | ||
【も】 | ||
毛利隆元 (もうりたかもと) |
1523〜1563 |
毛利元就の長男。大内義隆のもとへ人質として送られ、気に入られ自分の養女を娶らせた。家督を毛利元就から譲られたが、実権はなかった。毛利元就よりも先にこの世を去る。 |
毛利輝元 (もうりてるもと) |
1553〜1625 | 毛利隆元の子。隆元の死後家督を継ぐ。関が原の合戦で西軍総大将に任命されると何故か引き受けてしまう。いざ関が原の合戦が起こると何もせず傍観したままで勝敗が決してしまう。そのため戦後は周防長門の一大名になってしまった。 |
毛利元就 (もうりもとなり) |
1497〜1571 | 中国地方の二大勢力、尼子家と大内家に挟まれた一土豪にすぎなかったが、大内家が尼子家を深追いしたため大敗し二大勢力の弱体化に成功し、1555年大内家を乗っ取った陶晴賢を厳島で破ると中国地方制覇に向け動き出した。中国地方制覇の仕上げに出雲の尼子家に大軍を送り込んだが結果を待たず病死する。 |
最上義光 (もがみよしあき) |
1546〜1614 | 父・義守と憎しみあっていたため強制的に隠居させ家督を相続する。また義守が家督を継がせようとしていた義光の弟・義時を殺害する。豊臣政権では徳川家康、豊臣秀吉に近づくために息子や娘を道具にして扱い、徳川政権では長男を殺害し、徳川の家臣となっていた弟・家親に後を継がせる。 |
籾井教業 (もみいのりなり) |
?〜1576 | 波多野家家臣。赤井直正とともに武勇を知られ、「丹波の青鬼」と称され恐れられる。織田軍の進行により居城と運命をともにする。 |
森蘭丸 (もりらんまる) |
1565〜1582 | 織田信長の小姓。信長の命を伝える取次ぎ役として権勢を振るう。独立大名となるも明智光秀の裏切りで主君・信長とともに本能寺に倒れた。 |