【さ】
斎藤竜興
(さいとうたつおき)
1548〜1573 斎藤義龍の子。美濃三人衆に見放され美濃を失い朝倉家を頼る。
斎藤道三
(さいとうどうさん)
1494〜1556 僧侶から油商人になり土岐頼芸を追放しついに大名になった。しかし、その後息子斎藤義龍の謀反で敗北し戦死した。
斎藤義龍
(さいとうよしたつ)
1527〜1561 斎藤道三の息子だが土岐頼芸の息子という噂もあり不和となりさらに溝は深まり兵を上げ斎藤道三を討ち取った。
佐世清宗
(させきよむね)
生没年不詳 尼子家家臣。毛利家の月山富田城攻めで毛利家に寝返る。
佐竹義重
(さたけよししげ)
1547〜1612 北条を相手に関東の大名をまとめ反北条の中心となる。勢いを増す北条家を相手に互角の戦いをする。
佐々成政
(さっさなりまさ)
1539〜1588

織田家の将で鉄砲隊を率いる。3段うちの元となる2段撃ちを考え出した。本能寺の変後柴田勝家に属し戦った。

里見義堯
(さとみよしたか)
1512〜1574 安房の大名。北条氏康が家督を継ぐ前から北条家と敵対し、敗北することもたびたび会ったがそのたびに建て直し再戦を挑む。
真田昌幸
(さなだまさゆき)
1547〜1611 真田幸隆の三男。父幸隆に劣らぬ才を持つ。武田家に仕えていたが滅亡後に独立した。所領の争いで徳川家康とは犬猿の仲で大軍に攻められたが撃退し、その息子の徳川秀忠にいたっては軽くあしらう。徳川家康は真田と聞くだけ恐れたという。
真田幸隆
(さなだゆきたか)
1513〜1574 信濃真田家の基盤を築いた将。武田家に仕官し、武田信玄が敗北した城を智謀を駆使し簡単に落城させてしまった。
真田幸村
(さなだゆきむら)
1567〜1615 真田昌幸の三男。武田信玄の弟典厩信繁から信繁の名をもらう。父昌幸に従っていたため在世時には無名の存在であった。死後大阪城入りしたが大野治長らから疑われ思うように献策が聞き入れられなかった。豊臣秀頼に出陣を促すがこれも側近たちに止められ、徳川家康の本陣へ突撃を仕掛けあと一歩まで迫ったが惜しくも逃げられ戦死する。
 
【し】
柴田勝家
(しばたかついえ)
?〜1583 織田家家臣だが織田信行につき織田信長と戦う。戦後許され重臣として北陸地方の攻略を担当する。本能寺の変後敵討ちに駆けつけようとしたが戦闘が熾烈を極めていたため思うように退却できず羽柴秀吉に先を越されてしまう。これが災いし清洲会議で主導権を奪われてしまう。秀吉と戦端を開くが外交のうまさで溝をあけられ北ノ庄落城と運命をともにする。
島左近
(しまさこん)

浪人しているところを石田三成に見出され高い俸禄を提示され感激しその配下となる。石田三成に夜襲を献策するが却下された。関が原の合戦で鉄砲隊の弾にあたり倒れる。しかし死体が見つからなかったため生きていたという説もある。

島津家久
(しまづいえひさ)
1576〜1638 島津貴久の4男。沖田畷の戦いで龍造寺家に勝利する。島津家に恥じぬ猛将であった。
島津義久
(しまずよしひさ)
1535〜1611 島津貴久の長男。島津貴久が基盤を築き上げたため家督を継ぐと侵略を開始し肝付家、伊藤家を次々打倒する。九州の最強であった大友家を耳川の合戦で粉砕し龍造寺隆信を討ち取り九州最大最強の大名となり九州の統一までわずかまでいったが大友家の要請で豊臣秀吉が大軍を率い上陸するとさすがに歯が立たず降伏した。結局領土を3カ国に減封されてしまった。
島津義弘
(しまずよしひろ)
1535〜1619 兄島津義久を手助けしその死後島津家の当主となる。関が原の合戦では人質をとられたためやむを得ず西軍につき、東軍とにらみ合ったまま勝敗が決してしまったため、凄まじい退却戦をみせ薩摩についたときには数十名しか生き残っていなかったという。戦後、徳川家康は再び事を構えることを危惧したため、西軍につきながら所領安堵される。

 

【す】
陶晴賢
(すえはるかた)
1521〜1555 大内家の重臣筆頭。大内家の武の柱石として知られ尼子家との戦いで活躍した。1551年、主君である大内義隆との考えの不一致から大内義隆を討ち政権を奪い大内義長を傀儡当主とする。中国地方制覇のための主導権をかけた厳島の戦いで毛利元就に大敗を喫し敗死した。
鈴木重秀
(すずきしげひで)
雑賀衆の鉄砲隊を率い恐ろしい強さを見せた雑賀孫一だといわれる。兄鈴木重朝と父鈴木佐大夫も雑賀孫一の候補だが、重秀の可能性が高い。
 
【せ】
仙石秀久
(せんごくひでひさ)
1552〜1614

九州出兵の折には軍監として四国勢を指揮したが無理な指揮を強行し長宗我部信親や十河存保を戦死させてしまう。

 
【そ】
十河一存
(そごうかずなが)
?〜1561 三好長慶の弟。兄をよく助けて畠山氏との戦いで活躍した。