【た】
太原雪斎(たいげんせっさい) 1496〜1555 仏門に入っていたときの今川義元の師。今川義元の教育係となる。後に家督争いが起こり雪斎の急襲で義元が家督を相続する。その後、義元の軍師として兵を率いる。また一方で人質として今川家に来ていた後の徳川家康の教育係となる。その後今川家、武田家、北条家の3強がお互い争うことに非を唱え雪斎の呼びかけで3国同盟が成立する。
大道寺政繁
(だいじょうじまさしげ)
1533〜1590 北条家家臣で3代にわたって使えた重臣。しかし羽柴秀吉の小田原合戦で寝返り逆にこれを不忠者として切腹を言い渡された。
高橋紹運
(たかはしじょううん)
?〜1586 大友家家臣で立花道雪とともにその名を知られる猛将。立花宗茂の実の父親である。耳川の戦いで敗北し没落の一途をたどる大友家を道雪とともに支えた。自ら羽柴秀吉の援軍が来るまでの捨石となり壮絶な死をむかえた。
武田勝頼
(たけだかつより)
1546〜1582 武田信玄の4男。信玄死後、遺言どおり武田信勝の後見とし当主となる。しかし信濃衆を重用したため譜代の家臣たちの心が離れる。結局譜代の家臣が止めるのを聞かず長篠の合戦で敗北し内藤昌豊・山県昌景ら真の忠臣達を戦死させてしまい、裏切りが相次ぎ天目山で自害した。
武田信玄
(たけだしんげん)
1521〜1573 戦国最強と謳われた武田の騎馬隊を率いた大名。暴君の父信虎を追放し家督を継ぐ。その後信濃へ進軍し信濃を統一すると宿敵上杉謙信と川中島で幾度となく対陣する。そのため織田信長に先を越され上洛されてしまう。その後上洛を開始し三河の徳川家康に勝利し勢いをつけたが病のため病没してしまった。
武田信繁
(たけだのぶしげ)
1525〜1561 武田信虎の次男で信玄の弟。父信虎は信繁に家督を譲るつもりであったが信繁は兄を非常に尊敬してその兄を差し置いて当主になる気などなかった。結局信虎は追放され信繁は信玄の配下として活躍する。武勇に優れ真田昌幸は息子に真田信繁(幸村)と名付けるほどであった。川中島の合戦で裏をかかれた別働隊が到着するまでの盾となり戦死した。
竹中半兵衛
(たけなかはんべえ)
1544〜1579 斎藤家家臣だが、当主が愚者で重く用いられられることはなかった。羽柴秀吉に目をつけられ再三その配下になるようにすすめられ家臣となる。以降軍師として的確な助言をするが若くして病没してしまう。
立原久綱
(たちはらひさつな)
1531〜1613 尼子家の重臣の筆頭。山中鹿之助の叔父で共に尼子家の再興に尽力した。
立花道雪
(たちばなどうせつ)
1513〜1585 大友家家臣。若いころ雷に打たれ半身不随となる。しかし戦時には勇猛果敢に采配を下し常に勝利をもたらす。しかし大局を変えることはできず没する。
立花宗茂
(たちばなむねしげ)
1567〜1642

大友家家臣。父は高橋紹運で養父は立花道雪という名将2人を父に持つ。その父に恥じぬ名将で秀吉の九州平定後は大名となる。関が原の合戦で当然西軍につき戦後改易される。その武勇を惜しまれ次々と仕官を勧められるも断る。徳川家康に1万石で召抱えられ大阪の陣では徳川方につく。その後21万石の大名に返り咲いた。

伊達政宗
(だてまさむね)
1567〜1636 伊達家17代当主。幼児期に病を患い隻眼となる。母は政宗を嫌い弟を擁立しようとしたため弟を殺害する。小田原の合戦で北条につくか豊臣につくか家中がまとまらずついに決断し豊臣家につくが、遅参したため死に装束を身にまとい参上し許される。徳川政権では重用され徳川秀忠や家光に慕われた。
 
【ち】
長宗我部元親
(ちょうそかべもとちか)
1538〜1599

優れた智謀と武勇を用い四国を統一した。しかし羽柴秀吉の四国攻めの前に降伏した。

長宗我部盛親
(ちょうそかべもりちか)
1575〜1615 長宗我部元親の4男。関ケ原の戦いで西軍についたため所領を没収される。このため大阪の陣では豊臣家に属し激戦を繰り広げるも戦死。
 
【つ】
津軽為信
(つがるためのぶ)
1550〜1607 南部家に従属していたが南部晴政の後継ぎを巡る争いに目をつけ独立する。謀略を巧みに使い勢力を拡大しつつ小田原の陣に進んで参戦し羽柴秀吉から大名として所領を安堵される。
筒井順慶
(つついじゅんけい)
1549〜1584 松永久秀に大和を奪われ明智光秀のとりなしで再び大和一国を手に入れる。明智光秀が本能寺で織田信長を討ち対羽柴秀吉戦に助力するよう要請したが傍観しついに動かなかった。
 
【て】
 
【と】
藤堂高虎
(とうどうたかとら)
1556〜1630

浅井家家臣だが主家滅亡後、転々と仕官先を変えたが徳川家康に仕えると側近として活躍した。

土岐頼芸
(ときよりよし)
1502〜1582 美濃の守護であったが斎藤道三に実権を奪われていたため傀儡であった。結果、まんまと美濃を奪われ追放された。
徳川家康
(とくがわいえやす)
1542〜1616 幼いころから人質として駿河にいた。今川義元が桶狭間で討たれると織田信長と同盟を結び三河で独立する。その後織田信長の盟友としてともに戦う。織田信長の死後、羽柴秀吉と戦端を開くも再三の説得で臣下の礼をとり事なきを得る。秀吉の死後、実権を握り関が原の合戦、大阪の陣をえて天下を統一する。
徳川信康
(とくがわのぶやす)
1559〜1579 家康の嫡男として武将としても優れていたが、織田信長に母の築山殿の武田家への謀反を疑われ、織田家の忠誠心を示すため家康より切腹を言い渡された。
徳川秀忠
(とくがわひでただ)
1579〜1632 徳川信康死後、嫡男として2代目将軍となる。キリスト教の禁止や鎖国を強化した。
鳥居元忠
(とりいもとただ)
1539〜1600 徳川家康の家臣。家康の下戦功を幾多もあげ、信頼も厚かった。徳川家康の会津出兵の際、時間を稼ぐためわずかな兵とともに伏見城に篭城し戦死した。