戦国名将録 | ||
竹中半兵衛 | ||
日本の孔明 | 生没年1544〜1579 | |
竹中半兵衛-重門 | ||
竹中半兵衛は初め美濃の斎藤家の参謀であったが当主の斎藤竜興は愚直な男で半兵衛が戦国武将としては優男であったため馬鹿にし冷遇していた。 あまりの愚直さを憂いた半兵衛はわずか16名の兵で稲葉山城を落城させ、行いを反省させようと試みた。 このとき羽柴秀吉から、織田信長へ城をあけ渡すように勧められたが当主がいくら愚直でも他国人に城をあけ渡すわけにはいかないときっぱり断る。 結局、斎藤竜興に城を返すが何も変わらず、美濃三人衆が寝返ったため斎藤竜興は朝倉義景を頼り落ち延びた。 その後、交渉役として話したことのある羽柴秀吉に仕官を再三勧められ織田信長にではなく、羽柴秀吉に使えることを条件にその配下となった。 美濃周辺の武将に顔が利くため浅井・朝倉の武将との交渉に尽力した。 また荒木村重謀叛の折は説得に向かい捕まった黒田官兵衛が寝返ったのではと憶測がながれ黒田長政を磔にするよう織田信長が命令じたおりはかくまってやるなど義にも厚い名将であった。 だが三木城攻略の折、体が弱かった半兵衛は病気となりそのまま病没してしまった。 黒田官兵衛とともに両兵衛と呼ばれ秀吉に仕えた半兵衛は黒田官兵衛とは違い無欲であり、そのため生涯秀吉から人柄とその類まれな才能を愛された。 その才や颯爽とした感じから今孔明と称される。 孔明とは三国志の時代の蜀の軍師・諸葛亮孔明のことで当代の比類なき智将。 |
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