戦国名将録 | ||
羽柴秀吉 | ||
立身出世 | 生没年1536〜1598 | |
羽柴秀吉-豊臣秀頼 | ||
尾張の貧しい農家の出身だが、一国一城の主となることを夢見て織田信長に仕官する。 草履もちのとき草履が冷えないよう機転を利かせ織田信長に気に入られる。 その後美濃攻めに必要な墨股城の建設を一夜で建て斎藤家はもちろん織田家からも驚きの声があがった。 出世をする一方で名前を買えるときには織田家中の重臣、丹羽長秀から羽、柴田勝家から柴の名をとり羽柴と名乗る。 金ヶ崎の戦いで挟み撃ちにあい撤退する織田軍のしんがりを自ら申し出、徳川家康とともに見事大役を果たした。 勢力を拡大するにつれ戦功を増やし中国地方の指揮官に任命され毛利輝元と交戦する。 1582年本能寺で織田信長が討たれると毛利家と和睦しあっという間に引きかえした。 このとき毛利家は追撃するように意見があったが、小早川隆景の信頼を得ることができたため無事帰還できた。 逆に柴田勝家は数日前に降伏した敵を見せしめのため殺していたため和睦がまとまらずなかなか後退できなかった。 明智光秀を討つことに成功した秀吉は後継ぎを決める清洲会議で主導権を握ることに成功した。 怒りが収まらない柴田勝家は兵を起こすが、頼りにしていた前田利家が羽柴秀吉の友人であったため積極的には動いてくれず敗北し、1583年北ノ庄の落城と運命をともにした。 1584年、織田信雄が徳川家康と組み挙兵した。この小牧長久手の戦いで徳川軍に翻弄されるが得意の調略で織田信雄と和睦。戦う名目のなくなった徳川家康は結局軍門に下った。 そして最後の敵北条氏政・氏直父子に降服を勧告するが拒否されたため大軍を組織し小田原城を取り囲み内通もあり開城させることに成功した。 さらに徳川家の戦力を割くため、北条家が民を大事にし税を安くしていたため治めるのが難しい北条領に加増を名目に転封する。 また万が一のため加藤清正ら城作りの名人といわれた人々を集め大阪城の建設にも力を注いだ。 1598年、徳川家康にくれぐれも秀頼を頼むと遺言し病死した。 |
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