戦国名将録
鍋島直茂
智仁勇のそろいし名将 生没年1538〜1618
鍋島清房-直茂-勝茂

龍造寺造寺家の家臣で龍造寺隆信の母が父・鍋島清房の後妻である。
鍋島直茂は先妻の子なので血のつながりはない。直茂は龍造寺家の重臣で田出畷の戦いで父と共にに活躍し勝利をもたらす。
その後も合戦では素晴らしい指揮を見せ大友家の猛将の立花道雪に智仁勇のそろいし名将だと賞された。
ところが当主の龍造寺隆信は若年時は領土拡大に力を入れ肥前の熊と称され恐れられていたが後年に家督を譲った後は酒におぼれる毎日が続き精神的に不安定な人物となってしまった。
その龍造寺隆信に島津・有馬の連合軍と合戦を行うことを知らされず、急ぎ合戦を止めるように進言したが、最早、龍造寺隆信は聞く耳を持たず案の定、沖田畷の合戦で討ち取られた。
このときの龍造寺隆信は馬にも乗れないほど肥満していて討ち取られた首は味方にも受け取られなかった。
後を継いだ龍造寺政家は病弱で頼りにはならなかったため直茂は独断で羽柴秀吉に臣従することを誓い所領安堵される。
羽柴秀吉が九州平定に乗り出すと約束どおり臣従し秀吉にその才を評価され戦後主家の龍造寺家よりも高い俸禄を得ることとなった。
また病弱な龍造寺政家の代わりに国政を預かり管理するうち龍造寺政家が病死しその後継ぎも自殺未遂を犯したため当主の座に直茂が継ことになり龍造寺家の一門衆はその家臣となることを余儀なくされる。
このことが後の鍋島化け猫騒動という怪事件の発端となる出来事である。
主君であった龍造寺家を乗っ取り鍋島家の家臣にしてしまった直茂は結果的に不忠者として知られるようになったが、当主に反旗を翻したこともなく、遠ざけられても忠勤に励んだ点を見ればむしろ忠臣といってもよいのではないだろうか。
 
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