戦国名将録 | ||
武田晴信 | ||
甲斐の虎 | 生没年1521〜1573 | |
武田信虎-晴信-勝頼 | ||
甲斐の虎と呼ばれ恐れられた武田信玄は幼少時から期待されていたわけではない。 父・信虎は猛将で知られたが一方では悪逆非道な面があった。 また晴信は慎重に物事にあたるため信虎に臆病者と罵られ弟の信繁を当主につけようとしていた。 そのため晴信はあえて愚か者のふりをしていたが、弟は兄思いで当主につく気などなかった。 そのため重臣板垣・甘利といった将たちはこのままではいけないと晴信を当主にするため信虎を追放する。 このとき反対であったものはごくわずかで晴信は21歳で家督を継ぎ、民や家臣から期待された。 当主の追放という大騒動であったため、信濃の諏訪頼重ら諏訪勢がここぞとばかりに攻め込んできたが勝利し、逆に信濃への進行を開始する。 諏訪頼重を謀殺することに成功し、信濃の攻略に第一歩を踏みだした。 ところが1548年、上田原の戦いで信濃最強といわれた村上義清に敗北してしまう。 このとき信虎時代から武田家に使え、信虎追放劇の中心となった板垣・甘利といった猛将を失ってしまった。 この敗戦で小笠原長時や反武田の大名たちがここぞとばかりに旧領の回復のため攻め込んできたが、起死回生の奇襲によって勝利し、逆に小笠原長時に大打撃をあたえることに成功した。 小笠原氏はなかなかの勢力を誇っていたため、信濃に大勢力を築くことに成功した。 1550年再び晴信は村上義清の戸石城を攻める。 ところがこの戦いも惨敗してしまい、あまりに見事な総崩れだったため武田の戸石崩れと呼ばれるようになった。 ところが翌年この戸石城を信玄の家臣、真田幸隆が得意の謀略であっさり落城させた。 以降、武田軍は村上義清を追い詰めることに成功した。 追い詰められた村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち延びた。 上杉謙信は義に厚い武将であったため信濃奪回のためたびたび信濃に進軍してきた。 このときの戦場となったのが川中島で何度となく刃を交わすこととなった。これが災いし、上洛を織田信長に先を越されてしまった。 足利義昭による追討令が出され、信長包囲網の結成により上杉・武田は和睦し、打倒信長そして天下統一に向け進軍する。 まず織田信長の盟友の徳川家康を攻めて大勝利し、徳川家康を三河へ撤退させた。 ところが三河を攻めようとしたとき、信玄は病のため撤退を余儀なくされる。 そして故郷・甲斐への帰国を願うも、ついに帰国かなわず信州駒場にて没した。 |
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