戦国名将録 | ||
北条氏康 | ||
相模の獅子 | 生没年1515〜1571 | |
伊勢早雲-北条氏綱-氏康-氏政-氏直 | ||
北条氏康は生涯30数戦し負けたことが無いといわれている。 また勝てる戦しかせず、むやみに兵を動かさないがひとたび兵を動かせば一夜にして城を落とした。 この氏康がその名を知られるようになったのは河越夜戦であろう。 1546年、関東管領山内上杉憲政と分家の扇谷上杉朝定が8万の大軍を率い北条綱成の守る河越城を包囲した。 このとき氏康はわずか8000の兵を率い夜襲により10倍の敵を討ち破った。 そして扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を上野へ撤退させ武蔵をほぼ手中に収めた。 この河越夜戦後、山内上杉憲政は幾度となく戦を仕掛けるが連戦連敗する。 結局北条氏の勢力に耐えられず越後の長尾景虎に関東管領の役職と上杉の姓を譲った。 1554年、北条氏康は今川義元が三河方面へ兵を向けていたため手薄になった駿河へ進行を開始した。 武田信玄は今川義元と同盟関係であったため救援の兵を出した。 決戦が近づく中、今川義元の軍師太原雪斎が3者の戦の非を説き氏康も了承し、ついに3国同盟が締結された。 このことで兵を関東に向けることができるようになり、上杉謙信との直接対決へといたる。 関東管領となった上杉謙信は1560年、11万3千の関東諸侯をひきつれ小田原城を包囲した。 氏康はけっして攻勢に出ず、守勢に徹し篭城して迎え撃った。 1ヶ月たっても落城させることができず、大軍を組織してはいたが統率をかいた謙信は、ついに小田原城を落城させることができず撤退していった。 その後第2次国府台合戦にも勝利した氏康は越後の内乱や越中の一向一揆に苦しむ謙信と、足利義輝の仲介で和睦した。また息子を上杉謙信の養子とし景虎を名乗らせ上杉景虎を名乗った。 この越相同盟激怒した武田信玄は4万の兵を率い小田原城へ進軍したが、氏康は相手にせず篭城していたため、長引くことの不利を理解していた信玄は撤退した。 その後も確実に領土を拡大しつづけ、1571年、関東に一大帝国を築いた氏康は小田原城内で没した。 |
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